「社交性のある奴は人間に対してある種の諦観を持っており、逆に社交性の無い奴は相手を変えようと足掻き絶望して最終的に引きこもりになった奴。」
といった風に総括して「だから俺は前者になろうって思った」とかって述べておりまして、これが非常に面白いお話だったのでちょこっと書きます。
叩き台になるのは山本七平の『比較文化論の試み』ですね。
ちょこっと該当部分を抜粋しますとですね、
したがって、ひとりよがりで同情心が無いということになりますが、これが非常に面白いことに、一見同情心に見えるものもあるわけです。その一例として、私の恩師ですが、塚本虎二先生が「日本人の親切」って面白い話をしておられるんです。
(中略)この先生が若い頃下宿していた家のご老人は非常に親切な方で、ヒヨコを飼っていたのですが、冬あまりに寒かろうといってお湯を飲ませたところがみんな死んでしまったという。先生は「君、笑ってはいけない。これが日本人の親切だ」、といっておられますが、これがですね、まさに日本的な親切なんです。ひとりよがりなんですね。
(『比較文化論の試み』p20より抜粋)
スパ帝はアバンの他者に対する態度を指して「人間に対する諦観」と述べておりまして、この感想は我々日本人からすると「ですよねー」という共感以外の何者も生じ得ない感覚ですが、これはある程度見方を変えると全く別の結論に達するわけですよ。
つまり"諦観"という言葉の持つ負のイメージとは裏腹に、その相手に対する尊重こそが普遍的な親切なんでないの?と山本七生は述べているわけです。
バランは「人間は良いものなんだ!」と信じて正しく変えようと足掻きますが最終的には絶望してアルキードを滅亡させるわけです。でもそれってただ勝手に喚いて、勝手に絶望しただけじゃんというような理屈ですね。バランの思考には他者が存在しないというわけです。
まぁ私がダイ大読んだのなんてン十年前ですからパリっと「こうだ!」とは言えないわけですが、この山本七生の理屈は非常に説得力があるなぁと思ったわけです。また"諦観"というある意味負の側面を持った単語を使う辺りやっぱりスパ帝も私とおんなじ日本人なんだなぁと。そう思ったのですね。
スパ帝の文章やら発言を追っていていつからかコスモポリタンな知識人という印象を持っていたので、価値観のベースに日本人らしい感性の発露が見て取れたのが何か本当に意外で…ちょろっと記事書いてみようと思った次第です。