2014年7月19日土曜日

他者と親切

ニコ生を見ていたらスパ帝がダイ大のアバンとバランを比較して、

「社交性のある奴は人間に対してある種の諦観を持っており、逆に社交性の無い奴は相手を変えようと足掻き絶望して最終的に引きこもりになった奴。」

といった風に総括して「だから俺は前者になろうって思った」とかって述べておりまして、これが非常に面白いお話だったのでちょこっと書きます。

叩き台になるのは山本七平の『比較文化論の試み』ですね。





ちょこっと該当部分を抜粋しますとですね、


したがって、ひとりよがりで同情心が無いということになりますが、これが非常に面白いことに、一見同情心に見えるものもあるわけです。その一例として、私の恩師ですが、塚本虎二先生が「日本人の親切」って面白い話をしておられるんです。
(中略)この先生が若い頃下宿していた家のご老人は非常に親切な方で、ヒヨコを飼っていたのですが、冬あまりに寒かろうといってお湯を飲ませたところがみんな死んでしまったという。先生は「君、笑ってはいけない。これが日本人の親切だ」、といっておられますが、これがですね、まさに日本的な親切なんです。ひとりよがりなんですね。 
 (『比較文化論の試み』p20より抜粋)

スパ帝はアバンの他者に対する態度を指して「人間に対する諦観」と述べておりまして、この感想は我々日本人からすると「ですよねー」という共感以外の何者も生じ得ない感覚ですが、これはある程度見方を変えると全く別の結論に達するわけですよ。

つまり"諦観"という言葉の持つ負のイメージとは裏腹に、その相手に対する尊重こそが普遍的な親切なんでないの?と山本七生は述べているわけです。

バランは「人間は良いものなんだ!」と信じて正しく変えようと足掻きますが最終的には絶望してアルキードを滅亡させるわけです。でもそれってただ勝手に喚いて、勝手に絶望しただけじゃんというような理屈ですね。バランの思考には他者が存在しないというわけです。

まぁ私がダイ大読んだのなんてン十年前ですからパリっと「こうだ!」とは言えないわけですが、この山本七生の理屈は非常に説得力があるなぁと思ったわけです。また"諦観"というある意味負の側面を持った単語を使う辺りやっぱりスパ帝も私とおんなじ日本人なんだなぁと。そう思ったのですね。

スパ帝の文章やら発言を追っていていつからかコスモポリタンな知識人という印象を持っていたので、価値観のベースに日本人らしい感性の発露が見て取れたのが何か本当に意外で…ちょろっと記事書いてみようと思った次第です。

2014年7月14日月曜日

野々村議員とかいうネタ人間が話題ですけれども

野々村議員本人に関しては、


「ハハッ、ワロス。


程度の感想しか無いのですけれども、どうにかならんもんかなぁとも思いますね。

既定路線として人口減少に伴い国政レベルでも地方行政レベルでも議員や職員の総数って削減されるのでしょうという辺りは所与として、問題は待遇であり線引なんだろうなぁと。

どの辺の線引かと申しますと要するに、


"出馬のリスクに見合わない所得しか得られないから架空の政務活動費を請求する"


のか、


"十分な所得を得ているが更に資産を積み増したいから架空の政務活動費を請求する"


のか、私には分からないのですよ。

まぁ本件に限ってみれば"架空"なんでもうそりゃアウトでしょってなもんですが、こういうお話って収入ばかり俎上に登って支出の件は議論されないのですよね。

世の中なんか「叩けば埃は出るべぇな」みたいな風潮になっており、今全国の功名心あふるる記者達は血眼になって地方議員の経費を洗っているのでしょうけれども、そもそも十分な所得があるなら誰も架空請求なんてしないと思うのですよ。だってリスクの方が大きいじゃん。

まぁ昔某北の大地で助役やってた親戚のおっちゃんが、


「あの人(首長)放っとくと何しでかすか分かんねぇ」


とか愚痴ってた記憶もありますので、リスクを認識できてない場合ってのも儘あるようですがw

まぁそれはそれとし給与が妥当かそうでないかというのは貸方と借方見比べてムムムとするしかないわけで、何が言いたいかというとマスコミ各社さんはそもそも議員の支出がどんな水準なのか明らかにしてから報道してくださいねって思いますね。

少なくともググったらすぐ出てくるようにはしていただきたいです(怠け者)。